意味ではなく学びに目を向ける
人生でなにか出来事が起こったときに、
「これは何か自分に意味のあることでは?」とか、
「この出来事はどうして自分に起こったんだろう?」
というふうに考えることってありませんか?
もっともそうな考え方ですが、この考え方には落とし穴があります。
そう考えたくなる場合の出来事は、自分が避けたいとか、自分にとって望ましくないことが多くないでしょうか。
例えば、恋人にフラれる、会社をクビになる、子どもが不登校になる、事故にあう、病気になる……。
そこに自分なりの意味づけをして自分を納得させたいからそういう問いかけをする。
肯定できるようなラッキーな出来事だったら、だいたい人は手放しで喜び、自分に起こった意味など考えないはずです。
そして、そんな出来事があるたびに、占いに頼ったり、怪しいセミナーにハマったり、無意味な自分探しならぬ「意味探し」を繰り返す──。
そこでそんな出来事が起きた場合に試してみてほしいのが、「この出来事にはどういう学びがあるだろう?」と考える方法です。
じつは起こる出来事自体に意味はありません。
そして、その出来事は、ただ出来事として自分に起きただけで、ましてや人のせいにできるものでもありません。
この考え方は自分からつかもうという主体性のある問いかけでもあります。
「意味づけ沼」にはまらないために
私の場合、母の介護をしだしたころ、
「私が介護をすることにどんな意味があるんだろう?」
「介護の意味とは?」
「母が認知症になったことにどんな意味があるんだろう?」
「認知症になる意味は?」
などとよく考えて、やはり「意味づけ沼」にハマり、いつも気持ちが混乱し、ささくれだっていました。
当然ながら上に挙げた質問にどれにも答えなどありません。考えても考えても正解などわかるわけもなく、堂々巡りで気持ちも全く晴れませんでした。
「どういう意味があるんだろう?」と考えているとき、人は、「私にこんなことが起こるはずがない」とか「どうしてこんな目にあってしまったんだろう」
というようにその出来事をどこか受け身で、犠牲者マインドで捉えていることが多い気がします。
あるとき私は、自分のどこかに介護や認知症を否定する気持ちがあるからこういう問いかけが出てくることに気づきました。もちろん犠牲者マインドもありました。
介護も認知症も、それ自体はただの出来事で事象として起きているだけ、なのにです。
そこで、質問の仕方を変えてみます。
「介護に私にとっての学びがあるとしたらなんだろう?」
「母が認知症になったことで私の学びがあるとしたらなんだろう?」
このように、「どんな意味があるのか?」を「どんな学びがあるのか?」に変えただけで、主体的な考えが頭の中をめぐり、納得できる答えが出てきたのです。
これは正直、目からウロコで、それまでのうつうつとした気持ちが嘘のように晴れました。
起きた出来事をプラスに変換できる魔法の問いかけ
実際、介護の経験は学びだらけです。
どのように人は老いるのか。認知機能が衰えると人はどうなるのか。
母の老いや衰えは自分が目の当たりにしなければわからないことで、それはいつかの自分です。
老いていくことの大変さ、あなたもいずれはこうなる、もしくはこうならないようにという教訓めいたものを、母は身をもって見せてくれました。
また、親が突然の事故で亡くなったり、心筋梗塞、くも膜下出血などで急死したりすると、子どもは親の死に対する心構えがなかったぶん、それはそれで苦しい思いをすることになります。
介護をすれば、多少は最後の親孝行ができたという思いを持てます。
そう考えたら、自分は最後に親孝行ができた。
そんなふうに考えているうちに、
「親孝行をさせてもらっている」
という感謝の気持ちが自然とわいてきました。
「この出来事にはどういう学びがあるだろう?」
「この出来事から学べることは?」
これは何事も人のせいにしないで、起きた出来事をプラスに変換できる魔法の問いかけです。
起こる出来事に意味はない。
どう起きた出来事をプラスに変換して捉えられるか。
すべては起こった出来事の捉え方しだいなんです。