介護はどの時点で終わっても100点です

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介護の達人に勇気づけられた言葉

私が介護のつらさから逃れたくて、介護をしている自分に何か意味を見いだしたくて、インターネットで情報をむさぼるように探していたとき、カウンセラーでエッセイストでもある羽成幸子(はなり・さちこ)さんの記事に出合いました。

羽成さんは祖父母と両親、姑の5人の介護を経験されています。母親一人でも悲鳴を上げている私からしたら想像を絶し、その経験に裏打ちされた言葉の数々は、私の心に重く響きました。

私はその記事のサイトをブックマークし、プリントアウトして手帳に入れ、つらいとき、怒りでどうかしそうなときなどに何度も読んで助けられました。

まず、私の心に刺さったのは、
「人間に与えられた仕事のなかで、一番大変なのが介護だと思います。とりわけ、在宅介護の厳しさは、経験した人でないとわからないものでしょう。いわば、自分の命を守りながらもう一人の大事な命を守るのですから、苦しさが伴うのも当然のことです」(カッコ内は介護情報サイト「MY介護の広場」から引用。以下同)。
という文章です。

介護のつらさは介護をした人にしかわからない。私だけではないんだ、羽成さんのような方でも同じような気持ちでいたんだと、救われる思いがしました。

そして、親を介護することについてこう書かれています。
「憎しみや怒りの感情がわくこともあるでしょう。しかし、恐れることはありません。感情のすべてが愛から出たものだからです」
(略)
「日々、葛藤との闘いでもあります。その葛藤も恐れることはありません。やがて親の死に向き合ったとき、たじろがない力をくれるのも、それまでの葛藤だからです」

なんと心強い言葉でしょう。

憎しみ、怒り、葛藤の気持ちが出てくると、自分を責めて、自己嫌悪にさいなまれることが多々ありますが、この言葉にも慰められる思いがしました。

さらに、
「介護には、格好の教科書も、模範となる回答もありません。どんなかたちでも、介護が終わったら100点だと思ってください。場所が病院であろうと、施設であろうと、在宅であろうと、とにかく終わったら100点です」
とありました。

「人生の主人公は私」という軸を揺るがさず介護にかかわる

そして、最も勇気づけられたのが、
「私たちは介護をするために生まれてきたのではありません。自分の人生をよりよく生きるために生まれてきたのです。ですから、介護は人生の一部分です。介護が始まっても、同時進行で自分の人生を生きる。介護が自分の人生を保証してくれるわけではありません。私の人生の主人公は私であるという軸を揺るがさず、介護にかかわることです」
という文章です。

一字一句そのとおりだと感じ入りました。

介護をしていると、自分の人生が置き去りになっているような思いにとらわれます。それではいけない、自分の人生もしっかり生きなければと思い直したものです。

以上にご紹介した羽成さんのどの言葉も私の心に深くしみ、ときに涙を流しながら、何度も繰り返し読ませていただきました。

介護はいつどんなふうに終わりを迎えるかわかりません。
そのときがいつなのか、どこで迎えるのか。

突然かもしれないし、その場に立ち合えるかもわかりません。

でも、羽成さんの文章を読んで、それがいつでも、どこで終わっても100点なんだとやさしく諭されたようで、とても気がラクになりました。

介護している認識があれば、大変なのはみんな同じ

同時に、私はどんな介護も大変さは同じだと思っています。

どんな状況でも「親(または配偶者、きょうだいなど)を介護する」という状況になったら、誰でもつらい。誰でも大変。誰でも葛藤を抱えるのです。

私は在宅介護だから母をすぐ間近で見ていられる。してあげられることが多いぶん、後悔は恐らく少ないでしょう。

でも、離れて暮らしていて実家が遠かったり、認知症のある親御さんが一人で暮らしていたりするケースもあります。

実家への距離も近距離から遠距離までさまざまです。
遠距離の介護には遠距離の大変さがあります。

同居の介護であれ、遠距離の介護であれ「介護している」という認識がその人にあれば、大変なのは同じこと。

だから、どんな状況であっても介護が終わったときは、みんな100点。終わったときは「私はよくやった」でいいんだと思います。

 

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