私は介護していない?
介護をしはじめたころ、私は母が私に介護をしてもらって当然感謝してくれていると思っていたし、そのことに期待していました。
口には出さなくても、そういう気持ちはあるだろう。きっと感謝してくれている。そう思わなければやっていられない部分もあったかもしれません。
でも、だんだん月日がたつうちに、感謝だとかそんなことはどうでもよくなってきました。
認知症があればなおさら、そんなことは無理だとわかってくるからです。
母は私に対して、ときには「ありがとう」とか「悪いね」と言うこともあります。
けれども、それ以上に自分の思うようにならない気持ちをぶつけてきたり、訳のわからないマイナス感情を浴びせてきたりすることのほうが多いので、いちいち言動に意味を持たせなくなっていきました。
行動や言葉に、もはや意味などないのだと。
それでも、今日、
「(あなたは私に)なにもしてくれない」という言葉を投げてこられました。
この言葉はこたえます。
ときどきこの手の言葉を投げつけられ、あまりにひどいと思って友人に相談すると、
「真に受けとらないで」
「受け流せばいいよ」
といったアドバイスをもらいます。それは自分でも重々わかっているつもりですが、やはりこちらも生身の人間です。
実際、言葉が発せられそれが耳に入れば、不快でどうしようもない気持ちになってしまうのです。
母から発せられる言葉の問題
突然ですが、私は今人生を、
「人生は起こる出来事をすべてプラスに捉えるゲーム」と考えています。
考えているというより、そう思えるようになりたいといったほうが正しいです。
ゲームという言葉に違和感を覚える人がいるかもしれませんが、そこは敢えてそのように捉えています。
人生に起こる一般的に不幸だとされる出来事に対してあまり深刻になっても、いいことは一つもありません。
あたかもRPG(ロールプレイングゲーム)の中で起こる出来事をクリアするように対処し、乗り越えて生きていくほうがずっと生きやすいのではないかと思うのです。
乗り越えたあとはゲームをクリアしたときのような爽快感もあるはずです。
(そういう私はゲームを一度もしたことがないのですが)
自分の人生で介護は必要な出来事だった。今世では自分が介護をするように選んで生まれてきた。介護をすることでたくさんの学びもあった──。
プラスに転換しようと試み続け、いつしかそんなふうに介護について大局的にはプラスに捉えることができるようになれました。
それでもまだクリアしきれていないピンポイントの問題が、この手の母の言葉なのです。
介護が終わるまでにクリアできるのか
これをプラスに考える、捉えるについては、なかなか乗り越えられないようです。
「(もう母は)何もわからないんだから」
そんな捉え方では追いつきません。
「受け流せばいいんだよ」
友人から何度言われても、自分がどれほどいろんなことを犠牲にして(というのは被害者意識なのでよくないのですが)、自分の時間を費やしてしていることに対して、いくら訳がわからなくなっているとはいえ言っていいことと悪いことはある……。
そう思ってしまうのです。
実際、そんな他人からしてみれば一見些細なことから介護殺人が起こるのではないでしょうか。私も他人事ではないと思ったことが何度かありました。
そして、
〈これ以上母に近づくと、またどんな恐ろしいマイナスの言葉を投げつけられるかわからない〉という思いが出てきて、
〈そばに寄るのは極力避けよう。これ以上近づかないでおこう〉
となり、接触を減らし、優しくすることができなくなっていく……。
それでも介護は続いていくので、目の前のやらなければならないことはしていく必要がある。
こんなことを書きながらも、
〈ああ、またのどが痛いと言ったときのためのトローチがなくなったから、かかりつけ医に連絡して薬を処方してもらわないと〉なんていうことを考えている。
もう私の脳は「介護脳」になってしまっているのです──。
そんなことを繰り返していくうちに、自分の感情は置き去りになり、虚無感が増し、心が不感症になっていく……という悪循環にハマっていきます。
介護は本当に恐ろしいものです。
「母の訳のわからない言葉をプラスに捉える」
介護の卒業までに私はこの問題をクリアすることができるのか。介護がいつ終わるかわからないのと同様に、これもまたわからないです。