介護に「上がり」はない
昨年10月に腰の骨を圧迫骨折し、2週間ほど寝たきりだった母が、12月には一人でご飯が食べられ、ポータブルトイレにも行けるようになりました。
そこで心の底からありとあらゆるものに感謝をし、「もう介護のすべてはわかった」くらい全知全能感に浸っていた私でしたが、年が明け、また同じループにはまり込んでしまいました。
介護に「上がり」はない。
残念ですが、心の奥底からそう思います。
母は年明け前くらいから、尿失禁で布団や毛布をぬらすようになりました。
自力でポータブルトイレに行けるようになったのはこれ以上ないくらい喜ばしいことです。ところがオムツがテープ式ではなく以前の自分で上げ下げできるパンツタイプのもの(いわゆるリハパン)に戻ったため、オムツを上げきれないままベッドに戻ってしまうことが頻回になりました。
その状態でベッドで寝ながら尿をしてしまうので、毛布や布団がびしゃびしゃにぬれてしまうのです。
パジャマや防水シートを洗うのは訳ないものの、毛布と布団は大物で洗うのに手間がかかります。
ちなみに布団は自宅マンションの目の前がコインランドリーなので、本当に助かっています。それでもこの寒いなか布団を持って行って、家に戻って1時間ほど待ち、また取りに行くというのは面倒以外の何ものでもありません。
これが毎日のように続くようになり、お雑煮をつくってやっと一年の介護が終わったと自分なりに区切りをつけていたところへ、もういろいろなキャパが限界を超えてしまいました。
なんというか、切れ目のない介護のつらさに完全にお手上げ状態になってしまったのです。
「介護なんてしてもらってない!」
〈これ以上、私に何をしろというの?〉
〈私には少しの間も心が休まり、時間があくことはないの?〉
10月から相当な緊張の中にいましたし、睡眠もろくに取れない日が続き、それでもなんとか無事に年を越せた。もちろんコロナもありました。
そこへきて毎日のように布団や毛布を洗うことは、私の我慢の限度を超えていました。もうこれ以上は無理!
そこまでいろんなことをし続けられないよと……。
結果、私は母に、
「ねえ、施設に行ってくれない? 私の人生なくなっちゃうよ。私の時間返して。もうこんな生活たくさんなんだよ」
と静かに低く言いました。
すると、母は鬼のような形相になり、
「絶対に家にいる! ここから絶対出ていかない!」
と大声で反応しました。
そして、
「だいだいあんたになんて何もしてもらってない! 介護なんてしてもらってない! 何もしていないくせに!」
と私の耳を疑う言葉をさらに大声で怒鳴って言い放ったのです。
〈私が介護していない……〉
〈何もしていない……〉
認知症とはいえ、やはりこういう言葉を言われると身を切られるようにこたえます。わからないといっても、会話としてやりとりが成立してしまっているので、これはもう……。
私は言いました。
「ねえ、私かわいそうじゃない? もう5年も自分の人生が送れてないんだよ。子どもに迷惑かけたくないからって施設に自分から入る人だっているんだよ」
母の耳を疑うような言葉に情けなさと悲しさでいっぱいになりながら、また静かに訴えました。
「何言ってんの!! 偉そうに。介護なんてしてないのに偉そうに言うな!!」
わかっています。認知症だってわかっています。もう母は正常な人ではないって。
それでもこれほど悲しいことはありません。
私は怒りというより、悲しさと虚しさと情けなさがぐるぐるに入り混じって打ちひしがれてしまい、その場を離れました。
〈母はもう死んでいるんだ。正常な人間なら言わないことを言えてしまい、そして、言ったことすら忘れてしまうんだ〉
でも、私の気持ちは? こんなに毎日毎日ムダな時間を過ごして、費やして、訳のわからないことを毎日言われて、それにも「そうね、そうだね」と言い続けている私の気持ちは?
私にだって感情はある。人間ですから。
介護はムダな時間と虚しさと葛藤でできている
いったい、介護って何? 認知症って何?
どうしてこんなことが言えてしまうの?
介護はムダな時間と葛藤と虚しさでほぼできているということをまた思い知らされた出来事でした。
結局5年間ずっとこのループです。
もう大丈夫と思っても、またこの草一つ生えていないゼロ地点へ戻ってきてしまう。
感謝やありがたみをどれだけ感じても、またこの虚しさだけのゼロ地点に。
やはり亡くならないと、すべてに感謝というわけにはいかないのでしょうか。
そう思いながらも毎回そのゼロ地点から抜け出してきたから、今回もまた抜け出すのでしょう。でもそのたびに抜け出し方を忘れています。
そんな抜け出し方、介護のない生活には何の役にも立たないし、必要もありませんから、脳が意地でも覚えないのだと思います。
人間は本当に感情の生き物です。
私は生きている限り、きっとどんなことにも達観はできないんだろうなと、こうして介護をしていて思います。
いつまでも介護される側も、する側も、やはり人間。生々しい感情に結局は動かされながら生きている気がします。