自己犠牲と自分の人生

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どうしても浮かんでくる「自分を犠牲にしている」という思い

のっけから重めのタイトルですが……。

介護をしていると、どうしても「自己犠牲」という言葉が頭に浮かんできてしまうことがあります。

もちろん、どんなに高齢になっても母には生きていてほしいです。というより、目の前からいなくなってほしくない。

親との別れはできれば永遠に来ないでほしいと、親に愛着のある子どもは誰しも思うのではないでしょうか。

どんなにつらくても、最後まで在宅で介護すると幾度となく腹はくくってきたはずなのに、ふとしたときに「自分を犠牲にしている」という思いが頭をもたげてしまうのです。

仕事に集中できない。自分の楽しみに使う時間も制限され、ろくに取れない。

具体的にいうと、在宅介護はなにしろ介護者のすることが細切れで、多岐にわたりすぎています。

思わぬアクシデントもしょっちゅう。することはその日の親しだいで、いつどんなことが起こるかもわかりません。

それら自体がまずストレスです。予定など立たないわけですから。

在宅介護は連絡業と補充業

尿失禁は頻繁に起こるので、そのたびにパジャマや防水シートを洗う必要があります。日に2回、3回洗濯機を回すのはざらです。

毛布や布団まで汚れることもあるので、そうなったらコインランドリーに行かないといけない。コインランドリーを往復する時間は大変細切れです。

コインランドリーへ行く時までの時間。空いている機械を探し、機械に洗濯ものを入れて20%引きになる2000円のプリペイドカードを買って、カードを入れて完了ボタンを押します。

そこからいったん家へ帰る時間。出来上がりを待つ時間。それを取りに行く時間……。

この細切れな時間を過ごすことが、自分のためでもないのにと思うことが、悲しいかなとても虚しいのです。

オムツは現在4種類を併用していて、普通のリハパンと、長時間用のテープ式のオムツ、長時間用の大パッドと普通のパッドの4つです(腰の圧迫骨折をする前は2種類ですんでいましたが、増えてしまいました)。

要介護3以上だと、区からオムツ支給の助成が受けられ月1回送ってもらっていますが、母の場合、それだけではまかなえません。

この4つの減り具合に合わせて、それぞれをなくなりそうになったら、買うか注文するかして補充していく。この作業も大変細かいものです。

薬はポケット式のカレンダーを利用していて、これも週単位で補充。

ご飯は朝昼兼用のおかゆと夜用の炊き込みご飯の2種類をつくり、小分けにして冷凍。これも補充の繰り返しです。

これらはすることのほんの一例で、これにケアマネさんやヘルパーさん(ヘルパー事業所は2社利用)、訪問診療医、訪問看護師、訪問美容(ヘアカット)、デイサービス先、ショートステイ先、介護用品事業所、介護タクシーの依頼など、毎日が連絡の連続です。

補充業と連絡業。

今の自分の職業はそんなところかなと時々自虐的に思いもします。

何のためにいつもこんなに補充ばかりしているんだろう……。
何のためにこんなに連絡ばかりしているんだろう……。
何のために毎日洗濯ばかりしているんだろう……。

何のために……。

だんだん面倒だと思う気持ちも薄くなっていくような、何も感じなくなっていくような。感じないようにしようと思うような。

母は認知症で体も思いどおりにならないからと頭ではわかってはいても、そんなことが毎日毎日積み重なっていくと、比例して「自己犠牲」という思いが自分の中に沸いてきてしまうような気がします。

介護に時間を費やす意味

私は自分が後悔しないように介護している。それはわかっているけれど、これらにさんざん費やしている膨大な時間はいったい何なのか……。答えなど出ない延々と続くループです。

普通に仕事をしている人たちが、自分の時間をつくるために家事を代行してもらう時代です。

私がしていることはその真逆じゃないか。

わざわざ自分で自分の時間をなくして、人のために時間を使っている。

いったい自己犠牲から私は何を生み出しているんだろう。

私の人生、こんなに補充や連絡や洗濯や介助や、何かを待つことや、そんなことに時間に費やすためのものなんだろうか……。

介護の合間にときどきどうしようもなく考えてしまうのです。

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