在宅ワンオペ介護のぎりぎりのラインとは
母が腰の骨の圧迫骨折をして起き上がれなくなってから、3週間がたちました。
私のワンオペ介護も年が明けて来年2月になれば、丸5年たちます。今回ここへきて本当に食べることと排泄の大切さを思い知らされています。
母は要介護4で認知症もありますが、つたい歩きがやっとでもでき、ポータブルトイレで用が足せ、一人で食事ができていました。
恐らくこれが在宅ワンオペ介護のできるぎりぎりのラインだと思います。
今までこの3つが可能なことにより、人としての生活の質がなんとか保たれていたのです。
つたい歩きはさておき、自分で食べられて、自分で排泄ができる。この2つがなにより重要です。
この2つができなくなると、とたんに生活の質はぐんと落ち、むしろマイナスになります。本人もつらいし、介護する側にかかる負担は並大抵のものではありません。
2018年4月に肺炎で入院し、5月に退院してから2年半以上、母は入院せずにぎりぎり人間らしい生活が送れていました。
食べたいものをリクエストしてくれれば私が買いに行き、食卓の上に置いておけば気が向いたときに椅子に移動して食べることもできたし、尿意と便意を感じたときにいつでも自由にポータブルトイレで用を足せました。
人間が生きていくうえで、最も必要不可欠な行為が食べることと排泄であり、逆にいえば、この2つができなくなった時点でいわゆる人間らしい生活は送れなくなるのです。
この2つができるとできないとでは、0か100ほどの差があると思います。
できれば人間らしい。でも、できなくなったとたんにそうではなくなってしまう。
なんでも自分事にならないとわからない
そんなことはわかりきった当たり前のことで、今さらここに書くまでもないかもしれません。
でも、人は当たり前のことに気づきにくい生き物です。人の思考がきっとそうなっているから仕方ないことなのでしょう。
私だって今はこのことを痛切にわかっていても、母がいずれ亡くなり介護と縁のない生活に戻れば、忘れてしまうと思います。
人間ってそんなものです。
喉元過ぎれば、つらかったことや悲しかったことを忘れてしまう──。
けれどもなんでも覚えていたら、つらいことをずっと抱え込んでいたら、先には進めませんし、うまくできていると思います。
きっと、自分が高齢になって歩けなくなり食べられなくなって、トイレにも行けなくなったとき、「ああ、そういえば母にもこんなときがあったな。ついに自分にもそういうときがきたんだ」
と思い知るのでしょう。
人はなんでもその立場になってみないと、自分事にならないとわからないものなんですよね……。
母に感じた人間の持つ生命力
母は今日、おむつの中に便がしたくないあまり、気力を振り絞ってポータブルトイレに私の手を借りて移動し、やっとの思いで用を足せました。
そのくらいおむつの中に便をするというのは不快なんだと思います。
誰だってトイレで排尿したいし、排便したい。
それがどうでもよくなったら、また次の段階に入ったということなのかもしれません。でも、まだ母には人として維持していたい母なりの矜持というかプライドがあるのでしょう。
それが本能からくるものなのか精神的なものからくるものなのかはわかりません。恐らくそのどちらもあるのではないかと私は思います。
まだこの人には人間らしく、ある一定の質を保って生きたいという思いがある。
母は座って用を足したあと、ポータブルトイレのひじ掛けを力一杯握りしめ、
「ウワーーーーッ!!」
と大声をあげ、渾身の力をふり絞って立ち上がりました。そんな母に私は底知れぬ生命力を感じ、体を支えながら心が揺さぶられてました。
この人は必死に生きようとしている──。
その思いを大事にしなければと、すっかり小さくなってしまった体を支えながら強く感じたのです。