母はほんとに認知症?と思った日  

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認知症の人は亡くなった人を生き返らせる

母は例えば、来るはずのない地方在住の母のきょうだいがこれから来るからパジャマを用意してくれなど、しばしば「せん妄」からくる訳のわからないことを言うのですが、今日は朝、私が起きていくと、

「すごいことが起こったの」と、いつになく真剣な表情で話し始めました。

〈なんだ、また訳のわからないことを言い出すのか?〉と思い、身構えながら

「どうしたの?」

と聞くと、

「パパが蒸発した。フィリピン人の女の人と」ときました。

ちなみに父は2013年に前立腺がんのため84歳で亡くなっています。

父はがんが腰の骨に転移したのち、半年で亡くなりましたが、その半年間は在宅診療を主体にし、自宅で看取ることができました。

だから私は母も父と平等に最後は自宅でと思い、在宅介護にこだわっているというのもあります。

母とは父がもちろん亡くなっている前提で、これまで思い出話のような会話を何度もしているので、ここへきてまさかまだ生きている設定にしてくるとは予想もしていませんでした。

母は、これは困ったという表情を崩さず続けます。

「19歳の子どもがいるそうだから、アユミちゃんとは腹違いね」

ふむふむ。子どもまでいる設定なんだ。なかなかドラマチックな展開じゃないの。どれだけこれまで隠してこれたかってことだよね。やるじゃん父。

ってそういう話じゃないですが、母曰く、とにかくそういう状況らしいのです。

「パパはもうすぐフィリピンに行くみたい。あっちは物価も安いから、ぜいたくして暮らせるでしょ。こっちはこっちで二人で楽しくやっていきましょうね」

ということで、案外あっさり。父にそう未練はないらしい。切り替えはやっ。

「うちに貯金はある? パパがいなくなると年金も少なくなっちゃうわね」

母は日頃から認知症の人によく見受けられるというお金の心配をしていて、父蒸発→お金がなくなるという発想になったようです。

半沢直樹のセリフを引用

そして、そこからの母の言葉に私は耳を疑いました。

「ここからはパパに最後の仕返し、倍返しだ!! えっと堺だれだっけ?」

どうでしょう!

これが認知症の人の発言でしょうか?

母は短期記憶がほとんどありません。食卓の上のほうに掛けてある大きな記入式のカレンダーを見ては、

「今日は何日? 何曜日?」
と私の顔を見るたびに聞くのが日課です。

認知症の人の定番あるあるで、ご飯を食べているのに、

「お腹がすいた。今日は朝から何も食べていない」
と言うのもお約束です。

それが架空の話とはいえ、しっかり話を展開させて、最新の半沢直樹のドラマの決めゼリフをオチに使う……。

(この時期、毎週「半沢直樹」は観ていました)

これって認知症でない高齢者にもなかなかできない高等技術だと思います。「堺雅人」というフルネームまでは出てこなかったですが、半沢直樹が「倍返し」という言葉を使うことがわかっていて、主演俳優の名字が言えている。

まだ、そんなことを言える脳の回路が母にはあるのか。

もちろん、そんなギャグめいたことが言えたからといって、この先認知症が改善していくなんてことはさらさら思っていません。そうだったらどんなにいいかとは思いますが。

でも、きっと認知症の人にとって「話す」ことは、どんな会話であれとても大切で、脳に悪いはずはありません。

私は介護をしたてのころは、母が口にする「事実ではないこと」にまともに反応して、「そんなことない!」とか「それは違うよ」と言ってしまっていました。

でも、それはただ母を刺激して興奮させるだけで得策でないと学び、否定するのをやめ、どんな話も「そうねえ、そうねえ」と聞くようになりました。

ほとんど聞き流しているともいえますが(笑)。

ダイヤモンドのような瞬間

認知症の人には傾聴が大事だと言われます。私は介護のプロの方たちのように母の膝あたりに座り込み、下から見上げるようにして母の言うことに優しく耳を傾けるような、そこまでのことは残念ながらできません。

そんな時間があるなら、尿汚染した洗濯ものがしたいし、買い物にも行かないといけないし、仕事もしないといけないし、とても母ののろのろとしたペースに合わせられないのです。

これは介護の家族あるあるで、家族にとって傾聴がなかなかハードルが高いというのはあると思います。

家族は介護によって、常に追い立てられている気持ちにどうしてもなってしまうからです。

また、いつまでも元気だったころの親が自分にとって本来の親だと思うところが多分にあり、認知症で訳のわからないことを言う親を受け入れられないというのもあると思います。

でも、それこそ、何百回となくこれまで母の言葉を受け流してきて、こんなダイヤモンドのようにきらめく瞬間(つまり会話が成り立つ。しかもユーモアまで交えて)に出合えたことはとんでもない驚きであり喜びです。

今後も面倒くさがらず「そうねえ、そうねえ」を続けていったら、もしかしたら、またこんな素敵な瞬間に出合えることがあるかもしれません。

人間の脳についてはまだ解明されていないことだらけといいます。まさにその通りだと実感した日の出来事でした。

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