あらゆる欲求を訴える叫び
私が思う介護で大変なことの一つに、いつ呼ばれるかわからないというものがあります。
母の場合、とにかく叫ぶ。私の名前を延々と呼び続けます。
「ちょっと来てーー!」
「アユミちゃーーん!」
「誰か来てーーー!」
朝、昼、夜中、明け方、それはいつ起こるかわかりません。
(この文章を書いている今も呼ばれています)
まるで子どもが親にかまってほしい、お腹がすいた、眠いなど、あらゆる欲求を訴えるかのようにひたすら叫ぶのです。
同じ「アユミちゃーん!」でも、ときには甘えた声、ときには怨念が混じったような声で。ときには怒り爆発、ときに弱々しく、よくもこれだけバリエーションをつけられるものだと感心してしまいます。
私は子どもを育てたことがないのでわかりませんが、子どもなら「あら、眠いのね」とか「お腹がすいたのね」というような反応できるのかもしれません。けれども私は認知症の親に対して、なかなかそんな慈愛のある反応をすることができず……。
人間に親の面倒をみるDNAは備わっていない
以前読んだ介護の本によると、人間には子どもの面倒を見るDNAはあっても、親の面倒をみるDNAはもともと備わっていないのだそうです。
だから介護を苦痛に思ってしまう自分はおかしくないんだと、その文章に大変救われました。
介護をするなかで、私はずいぶん本やインターネットの情報に助けられました。
何度「介護 地獄」「おひとりさま 介護」「介護 やりたくない」、そんなキーワードで検索したかわかりません。
話がそれました。
この「叫び」が起こると、こちらはひたすら嵐が収まるのを待つしかありません。
気分はノーガードで打たれっぱなしのボクサーのようなものです。ただやられっぱなしで、何もし返すことはできない、というような……。
これまでの経験で培ったのは、絶対に呼ばれてすぐに「はいはい」とそばに行かないこと。
そうすると、どんどん甘えてつけあがるようになります。
呼べば来てくれると思うようになるのかは定かではないですが、そういう回路が脳にできてしまう気がするのです。
叫べるのは元気な証
それから、介護をしていくなかで、私はあくまで人生の主役は自分なんだという思いも強くしました。
人のためばかりに動いているから、逆に反作用としてそういう思いが出てきたように思います。
自分は親のために生きているのではない。自分のために生きている。あくまで軸を自分に置かなければならない。
といってもこれはただの理想論で、現実は毎日やらなければならないことに追われ、介護に比重がかかってしまうのですが。
だからせめて気持ちだけでも、そう持っていないとということです。
でも、まだ母は叫べるだけましです。
叫べるだけ元気な証拠。
これまで何度も肺炎やインフルエンザにかかり入院してきましたが、本当に具合が悪いときは、人間一切声なんて出せません。
だから、叫べるのは元気な証拠でありがたいと思わないとと、気持ちをいつも切り替えます。
今、叫び初めて1時間近くたちましたが、ようやくおとなしくなりました。
1時間叫べるなんて、体力があるとむしろ褒めるべきかもしれません(皮肉です)。
これで疲れて寝てくれるといいのですが……。
あくまで主軸は自分に。
実行は難しいかもしれないけれど、気持ちだけでもと日々そう言い聞かせています。