2020年のコロナ禍、本当の夏休みがやってきた

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解放感で満たされるショートステイ

2020年8月、お盆が明けた数日後にショートステイの日がきて、私にとって1週間遅れで本当の夏休みがやってきました。

母をショートステイに送り出すときは、ある種複雑で独特な気持ちがわいてきます。

もし、施設で何かあったらどうしよう。でも休息はしたいし、解放されたい。ショートステイは私が介護をしていくなかで唯一解放される大事な時間です。

1週間でも、すべてを人に任せられることからくる解放感は大変なものがあります。

母が実体として目の前に存在すると、それはどうしたって気になります。母から逃れられないのです。

きちんと世話をしてくれる場所にいるという安心感のもと、姿が見えなくなれば、

「きちんとお世話してくれているから、大丈夫」

と自分の都合のいいように考えて、次に帰ってくる母をこの目で確認するまで、とりあえずは一連の世話と責任から逃れられます。

送り出したときは、「ほーーっ」と思わず声が出てしまうような解放感と、あー手が届かないところへ行ってしまったという、一種不安な思いが混じり合ったような、なんとも言えない気持ちになります。

介護は思考で割り切れない

介護をしていると、本当にいろいろな思いが去来します。とにかくすべては自分との「葛藤」なのです。

毎日、優しい自分と意地の悪い自分がせめぎ合う、極端な自分に向き合う場面ばかり。

これほどさまざまな感情に左右されることもそうそうないから、それが葛藤を生み、つらくなるのだと思います。

親の介護はどこまでいっても、思考ではとても割り切れません。常に感情が出てきて振り回されてしまう。気持ちが安定していることはほとんどありません。

それが介護が人生で最も大変な経験と言われるゆえんかもしれません。

私は家にいるときの自分の表情が、どんどん能面のようになっているのではないかと気になっています。

何もすることがないことに戸惑う瞬間

母が介護タクシーで送られていくとき、私は自宅マンション6階のベランダからタクシーの姿が見えなくなるまでずっと見送るのがいつしか習慣になりました。

一度、建物に隠れてタクシーは見えなくなるのですが、最後に一瞬だけ、建物と建物の間に白い車体が見える。見えたと思ったら、一瞬でその先の建物の奥に吸い込まれ、車は完全に見えなくなる──。

その瞬間、「ほーーっ」とため息がもれるのです。

これは安堵のため息なのか、それとも、もし施設にいるときに母に万一何かがあってこれが最後の別れになったとしても、自分が決めて行かせたのだという覚悟を決めるあきらめにも似たため息なのか……。

ああ、もうあれこれ考えるのはやめよう。

また1週間後にはいつもの日常が戻ってくるんだし、ここは素直に小さな解放を受け入れよう。

介護タクシーを見送って、ベランダから部屋に入ったその途端、

〈何もすることがない──〉

そこから見事なくらい私にすることはなくなります。

家の中から母の気配は消え、空気はしんと静まりかえっている。

母を何回送り出しても、私はその瞬間、することのなさに茫然としてしまうのです。

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