一挙手一投足を凝視される
母はふだん自宅でリビングダイニングに介護ベッドとポータブルトイレを置いて生活しています。そして、食卓のすぐ脇にキッチンがある構造になっています。
私は母の食事の準備をするときや料理をする際は、この食卓とキッチン周りにずっといることになり、ベッドにいる母からはいつでも私の姿が見えます。
キッチンは食事を通して母の命を支える大事な場所です。
私は買い物をしてくると、食卓に買ってきたものを並べて整理をします。
そうすると母は私が買い物袋から買ってきたものを出す様子をじーっと見ていて、
「それは何?」と逐一聞いてきます。
買い物から帰ってきたときだけではありません。
寝ながらでもベッドの柵の間から私が母の視界に入る限り、目で追いかけ凝視していて、
「今、何をしているの?」
「それは何?」
と繰り返すのです。
私はずっと母に凝視されているこの時間が生理的にものすごく苦痛です。
母にとって新しく外から持ち込まれるものを見るのは、社会にちょっとだけ触れられるような機会なのかもしれません。
よく捉えれば、そうやって質問するのも母に知りたいという好奇心があるからで、喜ぶべきことなのかもしれない。
でも、そんなふうに毎日毎日、私の一挙手一投足を監視するように見続けられ、延々質問を繰り返されたら……。
こんなことが毎日のように続けば、誰でも精神がおかしくなってくるのではないでしょうか。
世界一、不毛なやりとり
他にも、
「今、お客さんが来てるの?」
と言われることもたびたびあり、これにもほとほと参っています。
誰も来ていないのに、母の中では誰かが来ていることになっている。
「誰も来てないよ」
といっても、納得しません。
「来てるでしょ!!さっき声がしてた!!」
決めつけて譲らないのです。
「誰もいないって」
そう答えても、母の中ではどうしたって来ていることになっているので、そうなったら最後、止まりません。
「なんで嘘つくの!!」
と激高するのです。
こんな不毛なやりとりがどこの世界にあるでしょうか。
ありもしないことを質問されて、きちんと返しても、それに激高して嘘つき呼ばわりされるという……。
ひたすら無意味なやりとりに、こちらはただただ消耗していくのです。
その不毛さにうんざりするというか、なぜそもそもこんなやりとりをしないといけないんだと、どうしようもなくやるせない気持ちがのどの奥あたりからせり上がってきて、しまいには吐き気がしてきます。
挙句の果てに、母は怒りに満ちた目で私をにらみつけてくるのです──。
〈どうして……、なんで……〉
介護をしていて、どうしようもなくやりきれなく、たまらない瞬間です。
認知症の人には話を合わせるのが得策だというのはこれまでの経験で知っていますので、
「お客さんが来ているの?」という母の問いに、
「来てるよ」
と言って合わせたこともありました。
そうすると、
「何人いるの?」
「誰が来ているの?」
「お昼ご飯を出さないと」
と架空の話は延々続いていきます。
これ以上介護に時間を使いたくない
架空の話に面白がって乗れる人もいるかもしれません。でも私にそんな余裕や寛容な心はとてもなく、無駄なことに1秒たりとも時間を使いたくないと思ってしまうのです。
だって、もう私はあなたのためにこれまで何千時間自分の時間を使ってきたと思ってるの? もうこれ以上時間を使いたくないよ、これ以上勘弁してよ……。そういう気持ちになってしまうのです。
そんなとき私は母の前から姿を消し、とりあえず自室に避難するようにしています。
介護に使う時間とは、どうしてこんなに無意味で不毛なのでしょうか。
こんな不毛なやりとりをするために、私は介護をしているのではない。こんな不毛な時間を過ごすために生まれてきたわけでもない。
心の芯の一番奥からから叫びたくなり、頭が、精神が、破壊されていくような気がしてきます。
介護とはいったい何なのか。こんなとき私の頭は真っ白になり、呼吸することすら忘れてしまいそうになるのです。